gallery2

2003年9月のINAXギャラリ−2 Art&News
伊庭靖子 展
― まなざしの行方 ―

会期 : 2003年9月1日(月)〜27日(土)
休館日:日祝日

Art Newsは、ギャラリー2の展覧会カタログです。ここに掲載論文を御紹介します。


まなざしの行方

伊庭靖子の作品に描かれているものは、いまこの時には無いなにかだ。写真で永遠を閉じ込めるように一瞬を写し、筆と絵の具で描いていくのだが、あるものを描いて、無い何かを痛切に見せる。光景を描いているのにあらわれてくるのは、単身や群像の肖像だ。無数のにんげんがそこにいる。強い光にあぶりだされた超常絵画のようだった。

伊庭のモチーフを写真にとって、それを画布に写そうとする行為には、患者とセラピストのひとり二役を演ることでしか辿りつけない、錯綜した希求がある。
作品をはじめて見たとき、光量過多な世界で、発光物に身をやかれた累々たる焼死体の、それすらも灰になってしまったような何も無さが充満していると感じた。
私たちはきっと被光過多症にかかっている。昼も夜も、射貫かれるような閃光に包まれている。まぶしい光とは彼岸の光で、この世にはない。光を描こうとする伊庭は、何かによって今様の彼岸を描かされているのではないか、という妄想も浮ぶ。モチーフはオレンジやグレープフルーツの薄い膜につつまれた果肉や、クリームやプディングやチョコレートソースで、超接近で描かれている。いや、彼女は名づけていない。私たちが勝手に果肉を見て、流れるチョコレートを見ていた。何一つあのようには見えないものなのに、テレビの画像や映画や雑誌のグラビアで、そのようなものを見ている、知っている安堵でことばにしてしまう。伊庭の作品を本物みたい、写真みたいに良く描けていると感嘆してしまうのは、映像だからリアルだと記憶してきた、脳のリアルがささやくからだ。写真という技術と表現の底なし沼の果ては、ほとんど分かっていないのに、私たちは写真のようだと腑に落ちて、真実に近いものがそこにあると安心する。
伊庭は、映像で執拗に繰り返される、はっきりとくっきりと拡大とスローモーションストップに、見える真実があると実感してしまうリアルの形質の変容を描いている。大量消費のグラビアや映像の片々の視覚に生きている、私たちの日々の膨大なリアルを描こうとしている。

新作は、全身が触ってきた感触をモチーフにしている。プラスチックのベンチやオフィスの椅子、ガラスのテーブルとそこに写りこんだ周囲の光景。あるいはベットメーキングされた綿地の枕やシーツや生成り地のソファ。
伊庭靖子は、どこにでもある光景を描くから、普遍で無二を伝える。だが画家になってしまった無間地獄の、一瞬をも捕らえられない茫漠をも描いてしまう。見る人々の、きっと一瞬で忘れてしまうだろう悲しみも描かれている。そして、ずっと今見ていることがほんとうに見ていることなのだろうかという問いかけが描かれてきた。だから胸を衝かれ、眼をそらしながら見てしまうのだ。

入澤ユカ
(INAXギャラリーチーフディレクター)




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INAXギャラリー2
2003年の展覧会



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