gallery2

2004年5月のINAXギャラリ−2 Art&News
北川フラム 展
― 仕事と思想をめぐる、講談と11人との対話 ―

会期 : 2004年5月10日(月)〜27日(木)
休館日:日祝日

森山大道写真展
「彼岸は廻る-越後妻有版・真実のリア王-」

会期 : 2004年5月10日(月)〜22日(土)
休館日:日祝日

Art Newsは、ギャラリー2の展覧会カタログです。ここに掲載論文を御紹介します。


揺さぶるひと北川フラム

入澤ユカ(INAXギャラリーチーフディレクター)

越後妻有トリエンナーレという三年に一度開かれた芸術祭の余韻がいつまでも去らない。2000年と2003年の夏、百ヶ所以上の作品を見るために数日越後の町や村々を行き来したできごとは、内出血のように身体の奥底にたまっていた。あの体験はいったい何だったのか、北川フラムとはいったい何者なのか、どんな美・術つかいなのか、どんな人・術つかいなのかと考えた。


2000年越後妻有地区をはじめて訪れたとき、人々がふつうに暮らす集落の、奥の奥まで踏み込んだことがなかったことに驚いた。旅や仕事の途中で、田や畑をとりまく里山や家々の連なりは、よく見る風景であり知っているものだと思いこんでいたが、作品を探して集落をめぐるうちに、全身を射抜かれるように、私は何も知らなかったのだとわかった。
そして作品と呼ばれる見慣れたものが、集落の境界地で、川べりの土手で、廃屋や田んぼの際では、ギャラリーや野外美術公園とは全く違った貌をしてあらわれることにも驚いた。大地で制作され設置された作品は大地と感応し、そこに住まう人も訪れた人をも動かす、生きもののようなものになっていた。「大地の芸術祭」とは、字義どおりだった。
この芸術祭で、越後妻有の6市町村での展示に、野外芸術展のように向き合った作家の作品は精彩を欠いているように思えた。その場に驚き深く感じ、土地の声を聴いたであろう作家の作品は、何百年もの地霊や守護霊が寿ぐように降りてきたのか、圧倒的で喜ばしく見えるのだった。北川さんが意図したものだったと今にして思うが、この芸術祭で越後妻有を訪れた人々はおのずから土地と人々と交感し、文物に目を開かれて、何かの紐帯で結ばれてしまった者どうしのように、体験と記憶を何度も語りあうものになっていた。
里山に作品というはからいが、農業や積雪や人生や山河や森や祖先や私自身までを圧縮したような知覚と感情を誘い、何度も「私はいままで、いったい何を見てきたのだろうか」と語りやまなくなるように発露した。
「大地の芸術祭」は僥倖のように慈雨のように私に降りそそぎ、芸術があらゆるものの鎮魂と再生の核にあるのだと、北川さんに揺さぶられてわかった。

北川さんは揺さぶるひとだった。人を山河を思想を魂を時間を経済を揺さぶってきた。その北川さんの展覧会は、「僕には、講談しかないなぁ。講演じゃなく講談。フーテンの寅さんみたいなね」と、何夜にもわたる講談と対話の展覧会が実現する。11のテーマの講談をもとに、11人と対話する。揺さぶるひと北川フラムさんと、彼が揺さぶられたひとびとが登場する。

入澤ユカ
(INAXギャラリーチーフディレクター)

日本里山考

北川フラム(アートプロデューサー)

ひと夏の大半が雨という、気候不順・冷夏のなか、50日間妻有を巡っていると、いやが応にも、どうにもならぬ天の配剤のもと、私たちの祖先はそれぞれの土地を耕し、大地との絶対的な、しかるに濃密な関係を築いて、地域の生活の営みを積み重ねてきたことに思いを馳せることになる。暗いうちからの田圃の作業、夜明け、野良でのニギリ飯、夕暮れには、子どもたちの声や鳥や虫たちの声が混じり、やがて夜になる1日1日の暮らし。春の山菜採り、苗代、田植え、除草、稲刈り、キノコ狩り、秋の祭り、1年の半分にわたる雪の下での生活、それら刻々の時間の積層と変化する四季のなかに子どもたちの成長と旅立ち、そして死という、無上の喜びと無声慟哭が織り込まれる。静まりかえった集落の佇まいのなかに、無量の人々の労苦と喜びとが篭められていて、それを私たちは里山というが、その里山の生の現実から発せられる1回切りの生への祈りが彼岸への思いとなってうすら明かりに妻有を包んでいる。 夏の終わり、生垣、塀、植え込みが混在する細かい路地を訊ね歩いて、友人のご母堂の位牌に手を合わせに伺った。お通夜と葬儀を終えた後の友人が、故人がいかに楽しんで芸術祭にかかわられたか、都会からのボランティアの女性たちと心のかよった交流があったかを述べられれば、同行した若い女学生の眼から滂沱の涙。彼の言葉も、普段仕事で話す調子ではなく、やわらかで、土地独特のアクセントと息のつぎ方があり、それは母上との対話の延長のように聞こえてくるのだった。私は母上のことは殆ど存じあげない。しかしその友人の仕事ぶりや町内の人たちとの共同作業や丹精こめた米づくりを知っているので、母上が、どのような態度と身繕いでこの地で生き、子どもを育ててきたかを僅かに理解できるような気がし、仏壇に掲げられている遺影や故人のアルバム、お供えしてある野菜や料理のすべてが、その家の雰囲気を含めて、故人にまつわる周囲や社会とのつながりの時間がゆるやかに、おぼろに立ち揺らいでいるように思えたのだった。
 しかし、その故人には同時に、私たちはもちろん、その子息にも知れない魂の領域があったはずで、それは人が亡くなった場所に漂う懐かしいあたたかさに反比例して凛として、遺影と遺されたアルバムの奥に透視されているような気がしたものである。
 私たちが大地の芸術祭でやろうとしたことは、ほんのわずか、一人の人間が社会と接するところに、一瞬の笑顔や気持ちの行き来をもたらすことだった。消費者の顔が見える米の生産や、長い辛苦の末の棚田や瀬替えを、都市の若者が驚嘆し、そのいきさつを目を輝かして聞いてくれること、夏祭りすらできなくなりつつある集落に、今再びささやかな祭りの予感がふくらむような活動ができればと思う。夜まで続く懇親会や、実に丁寧に教えてくださる農業のあれこれの奥に、どれだけの弧絶と諦観があっただろうか。こんな言葉を使うもいやだが、グローバリゼーションのもと、私たちの国家は完璧に「棄民」を始めている。中山間地、裏日本、豪雪地、農業、過疎、高齢化。亡くなったお婆さまの魂の声を聞きたい。魂は私たちに移されていく。
 クリスティアン・バスティアンスの『真実のリア王』は、それら無数の人たちの起居振舞と魂の境目を、文字通り舞台の皮膜一枚を往還することによって、見ようとする危険な作業であった。半年に及ぶ聞き廻り、それを昼夜わかたず手伝った学生たち、衣裳を制作したボランティアの人々、彼らの無償の働きがあったことによって、長い間、この地に生きて来た人の皮膜が透けることがやっと可能になったのではないか。そこに聞き入り、手伝う人の身体の生理の総量に見合ってしか冥界の言葉は感応してくれない。芝居が撥ねた後の観衆と出演者、裏方、演出家との爆発的な、わけもわからない言葉と抱擁を私は久しぶりに見た。この芝居が上演され、この地に舞台ができたことを嬉しく思う。この瞬間、観衆は、自分たちの表現を手に入れたように見えたのである。ちなみにこの『真実のリア王』が柿落としとして上演された「まつだい雪国農耕文化村センター(農舞台)」は、やがて出来ていくフィールドミュージアムの中心になるもので、1階ピロティ部分は芝居や音楽を含めた祭の広場として使用されるようになっている。
 さて、この本のいきさつである。前回に引き続き大地の芸術祭のポスターのアートディレクションをお願いした中塚大輔は、中川幸夫の花と森山大道の写真で仕事をしたが、1回目のジェームズ・タレルの『光の館』の次に、森山大道の写真で『真実のリア王』をやりたいと提案してきた。こちらに否はない。『新宿』の写真家は30年前から私たちを鼓舞してくれていたのだ。その結果がこの本である。『真実のリア王』の舞台と、その背景にある松代が撮られた。それは松代に凝縮された日本の村、人と自然の長い時間のかかわりとしての里山だった。さらに先ほどの故人のアルバムの古い写真が、その人の生の記録であったように、出演者はそれぞれが大切に写真を保存しておられる。それらの写真は中塚大輔の選択によって、森山大道の写真に挟み込まれた。

北川フラム
(アートプロデューサー)




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INAXギャラリー2
2004年の展覧会



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