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肥田晧三肥田せんせぃのなにわ学 展  解説
Prof.Hida's Naniwalogy : alternative studies on life and culture in Naniwa,Osaka Words

展覧会でご紹介している展示品の一部を解説とともにご紹介します。会場に展示されている肥田晧三氏の膨大なコレクションを通して「なにわ学」の世界が浮かび上がります。

(会場写真すべてINAXギャラリー大阪)



大阪 おもちゃ絵
[おもちゃ絵]
女の子の遊び

「おもちゃ絵」は子どもの観賞用の木版画で、文化・文政頃から明治期にかけて大量に出版され、絵本に取って代わっていった。「かつら付け」や「着せ替え」は歌舞伎の衣裳替えや舞の演目を主題にしたものが残っている。女子向きの絵本の内容は、女性の四季風俗の移りかわりを題材にしたもの、男女の見染めから結婚にいたるめでたい婚礼もの、鼠の嫁入り、狐の嫁入りなど。裁縫の手助けになる「針さし帳」のような懐中用の小さい絵本も作られた。



大阪のいろはかるた
[いろはかるた]
大阪のいろはかるた

幕末から明治にかけて、一枚刷りの形で刊行された「いろはかるた」。裏打ちして切り離して遊んだ。「犬も歩けば棒にあたる」で始まり「京の夢大阪の夢」で終わる江戸のいろはかるたとは異なり、大阪のいろはかるたは「いやいや三杯」「鰯の頭も信心から」「石の上にも三年」「一寸先は闇」などで始まり「京に田舎あり」で終わる。


天勝 天勝

明治末期から戦前の昭和期にかけて、魔術の女王と呼ばれた松旭斎天勝。初代、2代目ともに一座を率い、日本中で興行した大スターだった。坊ちゃん嬢ちゃんのためのマジックが天勝の信念で、子ども達に大人気であった。



大阪落語
[桂文治の番付]
大阪落語
[「風俗画報」大阪船場「幾代亭」の図]
大阪落語の歴史

1700年代、元禄時代に京の露の五郎兵衛、大阪の米沢彦八、享保時代に京の二代目米沢彦八が現われ、そうした流れの中で上方落語が完成していったが、1800年頃、大阪に桂派の祖・桂文治が出て上方落語中興の祖となった。大阪坐摩神社境内に寄席を持ち、芝居ばなしを得意に演じたといわれている。文治から多くの弟子が輩出し、桂を名乗る噺家が江戸と上方の両地で活躍、落語の隆盛を導くことになった。幕末の桂文枝は名人といわれ、門下の桂文三・桂文之助・桂文都・桂文団治の四天王が明治の全盛時代を築いた。船場淡路町の幾代亭は文枝ら桂派の定席の一つで、床の間や違い棚を備え、大阪一の席といわれた。一方の三友派は平野町や松屋町の此花館、法善寺の紅梅亭などを定席とし、色物入りの賑やかな高座で対抗した。明治末年に名人が相次いで物故、落語界は分裂状態となったが、大正時代になって吉本興業が完全に制覇、市中の寄席の大半は吉本の経営に移った。昭和9年、名人桂春団治が没した後、同年2代目春団治の襲名、翌10年5代目笑福亭松鶴の襲名があったが、時代の好みは漫才に移り、落語を取巻く状況は徐々に厳しくなる。次代の松鶴・米朝・文枝・春団治の活躍で再び大阪落語が活力を取戻したのは、昭和30年以降のことである。


春の踊り
[春のおどりプログラム]
春の踊り

大阪の4つの花街の春の年中行事として、南地五花街の「芦辺踊」は明治21年に始まり、新町の「浪花踊」は明治41年に、堀江の「木の花踊」は大正3年に、曽根崎新地の「浪花踊」は大正4年に始まった。この春の踊りで大阪は春を迎え、市民に親しまれた催しであった。大正15、松竹少女歌劇がそれまでのものを模倣して「春のおどり」を上演、次いで宝塚少女歌劇でも「春のおどり」が始まり、レビュー界の年中行事にもなった。昭和13年、戦時下に自粛中止。戦後は「大阪おどり」に統一して復活したが、今はそれも無くなった。



松竹少女歌劇
[ポスター メリーゴーラウンド]
松竹少女歌劇(OSK)

大正12年に大阪道頓堀の松竹座で旗揚げ、結成当初は松竹楽劇部といった。大正15年に始まった「春のおどり」から別刷りの番組を配布した。昭和9年8月に千日前の大阪劇場(大劇)に本拠を移し、第1回公演「カイエ・ダムール」で開幕。昭和14年から16年の「春のおどり」ではアルバム形式の特別番組が作られ、全団員の肖像が載り、全盛時代を迎えた。

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