gallery2

秋廣 誠 展
-動作の比喩-

会期 : 2005年10月3日(月)〜10月27日(木)
休廊日 : 日祝日

Art Newsは、ギャラリー2の展覧会カタログです。ここに掲載論文を御紹介します。

動作の比喩


有線と無線について考える。電波を飛ばすという言い方を聞いたとき、透明なチューブのようなトンネル状の道を電波が高速で通っていくのだというイメージで理解した。コードやケーブルは線という物質があるので、繋がっていることが理解できる気がしていた。もっと昔、電池のまえで考え込んだことがある私は、何十年もあらゆる事象について、じぶんの呼吸の数ほども驚嘆し続けている。 かろうじて、多くのことを美術や芸術行為によって実感してきた。芸術表現に触れた瞬間に、じぶんのあてどもない夢想や感覚が、はたと膝を打つように実感の体温に熱が通ったことが幾度もあって、大いなるものに承認され正解を得たような安堵と喜びに満たされた。秋廣誠の作品もまた、そうした出会いだった。 なぜか扇風機に液晶画面がくっついて、首を振っている。あるいは廻し車の中をねずみが回転運動をする液晶画面が、直線に走っている。 あらゆる事象をからくりレベルに翻訳してもらわなければ理解のとばくちにも辿りつけない者にとって、走りや風のような動作の比喩はリアルだった。秋廣の物質と存在の動作の比喩に興奮した。 「Iama sight」では、コンクリートの直方体に無数に仕込まれた光ファイバーが、一本一本立方体の透視図に配置され、その光の集積がコンクリートの外に穿たれた窓に小さく現れる。コンクリートの塊が目の前にありながら、コンクリート自身が、自分のレントゲン写真をもって現れたように思えて、驚きながら笑った。 「鉄瓶カメラ」も同様に、鉄瓶のなかに光ファイバーを透視図のように配置して、デジカメの窓にころっとした姿の鉄瓶を光の点にして写すのものだが、とても親密な気持ちになった。ものに心があるなどとは言うまい。ものには心ではなく、ありようがあった。鉄瓶というありようが、私に向かってきた。コンクリートにも鉄瓶にもありようと動作があった。 美大で絵画科を専攻したという秋廣の視覚の異化は、どんな契機でやってきたのだろうか。絵画作品は数点しか制作したことがないという。なぜ光ファイバーケーブルが彼をとらえたのか。光ファイバーを用いるとき、小さな鉄瓶のかたちを示すのにさえ相当な本数がいる。建物の外にある証明器具を中であらわそうとした時は、延べ10kmにも及ぶ光ケーブルを必要とした。そのときのケーブルは、黒々ととぐろを巻いていた。 このケーブルの長さと物量こそが、絵画科にいた彼が夢想のなかで描いたドローイングやデッサンの線に相当するものだ。そして唐突にも思えるコンクリートの塊や鉄瓶や扇風機というモチーフの選択は、描くことのリアルさと見ることのリアルさを、今にいきる彼自身と私たちが実感するために、切実なものだった。 あらゆるものが、モチーフという中心を示すようにいまは無いのだと覚醒しながら、不意に、向かってくるというかたちに辿りついた秋廣誠の「まことのありよう」がここにある。

入澤ユカ(INAXギャラリーチーフディレクター)

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