INAX GALLERY 2

1999年6月のINAXギャラリ−2 Art&News
山本浩二 展 − 炭彫刻 かたちの極点 −

会期:1999年6月1日(火)〜6月28日(月)
休館日:日曜・祝日

Art Newsは、ギャラリー2の展覧会カタログです。ここに掲載論文を御紹介します。



フロギストンなき世界

中村 達郎(文筆家)

丘の上に腰を下ろして陽が沈んでいくのを猿とともに眺める。そよぐ風が遠くにある空気を運び、遠くの大気もやがては冷えてくると私たちの重い腰を上げさせる。
太陽でさえ沈んでゆく。「見る」ものに眼を与えたあの力強い光もしかし、弱々しくなるにつれて美しくなるのはなぜだろう?そして、その淡い光に照り返されているものの顔がまた、疲れているほどに美しく感じられるのはなぜだろう?

「元気ですか?」と人は挨拶する。もちろん、元気であることはいいことだ。だけれども元気を強いられるのは辛い。人と人の競争、科学のスピード、いつでも身を浸していながら馴染めない。あらゆる武装を解いて夕日を眺めたい。脅迫することも脅迫されることもなく(人は自由や平和を目指してでさえ、自分自身をも脅迫する)、ただ無防備に夕日を眺めたい。関心なき適意』、例えばカントは「美」についてそう言った。私たちはあまりに私自身であろうとして、かえって見当違いの努力を続けているのではなかろうか?

山本の作品の前に立つ。過去から立ち昇る力、私たちはそいつを嗅ぐことになる。「質感」、美術を長年やってきた人間ならばそう言うのだろうが、前回の鉄やアルミ、今回の炭、どちらにも類似の匂いを嗅ぐときに私たちは、作者の中にあるえらく遠望の効く視力を感じないわけにはいかない。そして一方、今回感じられるはずの作品の味わいの劇的な変化にしても、ただ「質感」の変化によるものだけだとも思えないのだ。
前回までの鉄やアルミを使った作品は、いわば山本の意中にあるものだった。ある響きを聞き分けて形像として出現せしめること。物の始源へと遡ろうとする彼の一貫した姿勢から産み出されるものは、「方舟」であろうと「地衣類」であろうと常に低音の響きを有していた。キンキンとした高音を省き、虚飾を取り除くこと。ストイックなまでに。それらの作品にはどこか見知らぬ土地に建つ「墓」のごとき趣があった。
だがそこに感じられた違和、あれはなんだろう?枠を造り、溶解した金属を流し込むこと。それがどのような偶然に委ねられようと、金属の落下が描く模様はいつでも彼の枠の中にとどまった。人間の営みと言えばそれまでか?「人は本当には生きることができないのだ」そういった感触と同じものだろうか?虚飾を省きつつ虚飾を作ること、自分以前の世界を展望しつつやはり自分の眼で見るより他にないこと、彼の脳裏にそうした苦しみが宿らなかっただろうか?
こうした疑問は安易には口にだせないものだ。いわば人間の宿命ともいえることだから。前回、山本には何も告げないままに立ち去ったのだが、今回、炭に託された彼の作品を見てひどく驚かされることになった。克服されていたのだ。調和。不可思議な安堵。彼の手によることの「ふさわしさ」。

「触れてはいけない」そんな緊張を伴いながらも恐る恐る手を伸ばしてみる。重さをほとんど欠いた灰黒の物体の表面はザラザラとして、遠くに聞く海の音がした。無数の穴が開いているのだろうか、ある一点で起こった音の波は穏やかに広がり、ついに私の身体の軸に届くとそれをも揺らした。触れるに触れられぬ緊張が「相剋」としてではなく「愛しさ」として震えるざわめき。それはやがて滅びゆくもののメッセージ。ギリギリに持ち堪え、生き延び、形を成してきたもののはかなさ、美しさ。
作品はすべてフロギストンの何番、と名付けられた。フロギストン?今は廃棄された古い学説中の仮想物質。全て燃焼する物体からこのフロギストンが逃出するとされていた。

緻密な彫刻を施した作品を、山本は躊躇なく火中に投じる。フロギストンの脱出を助けるために。彼自身のアクを抜き去るために。
「惜しくはない」そう言った山本の言葉に先導されて私たちは、フロギストンのない世界へと分け入ることになる。会場を後にしたとき、幾らかでも身体が軽く感じられたなら、それはきっとアレが抜けたのだ。




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1999年の展覧会



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