INAX GALLERY 2

1999年7月のINAXギャラリ−2 Art&News
齊藤ちさと 展 − Rice Dot ドローイング −

会期:1999年7月1日(木)〜7月28日(水)
休館日:日曜・祝日

Art Newsは、ギャラリー2の展覧会カタログです。ここに掲載論文を御紹介します。



米つぶというドット

入澤ユカ(INAX文化推進部チーフディレクター)

これは、いわゆる老眼という現象ではないかとある日突然気がついたのは、白いごはんを口に運ぼうとして、米つぶのひとつひとつが視野に入ってきて気持ちがわるくなってしまった時だった。水晶体のちょっとした変化で、密集したごはんが目に迫ってくるなんて。米つぶが映像として意識されたはじめての体験のほかには、あの小さな粒にびっしりと文字や絵をかく人の記憶や、米つぶ占いの神事くらいしか浮かばなかった私に、あらためて米という物質とその意味や象徴性を感じさせてくれたのが、齋藤ちさとの作品だった。

齋藤ちさとの作品写真をはじめて見たとき、一瞬何が写っているのかわからなくて、視線がさまよった。画廊空間がぼんやりとピントが甘い写真のように写っている。 だがすぐに、それは透明なビニールが幾重かに垂れ下がっていることによる、光の屈折によるものだということはわかった。
次に見えてきたのが、白い線だった。なにかのかたち。あっ、便器ね。蛇口だとかたちが掴まえられた。もっと問いかけたい私の気配を察したのか齋藤が「米つぶなんです」「貼ってあるんです」とすかさず答えて、全くおもいもかけない素材の選択と線のありように不意をつかれた。驚きに対する私のパブロフの犬的反応、つまり、身体の心底からわいてくる笑いがやってきた。
若い作家と米つぶという取り合わせが意外だったせいもあるが、胚芽の部分がちょっとへこんだ独特のかたちを、ドットとして捉えていることに感心した。長い長いあいだ、見て、食べていながら米つぶが線になることや、陽刻的ドットでもありうると見えたことが一度もなかった。

齋藤は世界の物質はすべて粒子でできていることに強く惹かれていたというが、美術家の視点や視覚は個々に独特であるという私の推測的仮説が彼女にもあてはまりそうだ。そして透明という膜に白い粒を貼ったのが、電子時代に生きている世代のリアリティなのだろうと理解できる。
ワードプロセッサーのディスプレイは白い紙のようなものだと教えられるが、あれは白い紙にかく習字や絵の手習いの水文字のようなものではないか。水文字ということばがあるのかどうか定かではないが、齋藤の便器や蛇口も「上書き保存」しなければ一瞬でディスプレイ上から消えていくような印象で「拡大」をクリックし透明紙にプリントアウトされた図形のように霞んで底光している。
便器や蛇口の図像も角度によっては消えて見えなくなってしまったり、ふとした触覚で現われたり消えるような、緊張とおぼつかなさを孕んで揺れる。斎藤のインスタレーションは読み解く楽しさよりも、浮遊する感覚に身をまかせたほうがよさそうだ。

新作のモチーフは口腔。拡大された口腔の図像はユーモラスである。便器や蛇口も身体性と関連しているが、いずれもあっけらかんとしている。だが彼女の表現で私がもっとも好きなのは、米の一粒一粒がいきもので同じかたちではなかったことが、その寄り添った、あるいは降り積もったマチエールになったときに、ふわふわ感やもぞもぞ感になって五感に呼びかけてくることだ。見えたり見えなかったり、消えたり現われたり、暖かかったり、冷たかったり。




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1999年の展覧会



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