入澤ユカ(INAX文化推進部チーフディレクター)
私にとって渡辺信子さんは、突然水面下から勢いよく吹き上げてきた水の柱のように新鮮な存在だ。水脈としては確実に存在していたのに、私にとってきちんとした輪郭をもったのは最近のことだった。
数年まえ彫刻家の植松奎二さんに彼の新夫人として紹介された。病気で前夫人を失った植松さんが、音楽もよくする美術仲間だったという渡辺さんと再婚した。
普段ならこうした短文に不要なことを記しているのだが、渡辺さんの輪郭は、植松さんと対になることでより鮮明になったのではという幻想から離れられないのだ。
1999年8月、自称クリストの追っかけの私はドイツ・デュッセルドルフ近郊に[クリスト&ジャンヌ=クロード]の高さ100m、24角形の[ガスタンクの中にドラム缶を13,000個余を積み上げるプロジェクト]を見に行った。
数年前にも、同じドイツ・ベルリンの[旧帝国議事堂を包むプロジェクト]を見に出かけているが、その頃から[クリストのプロジェクト]は[クリスト&ジャンヌ=クロード]と対の名前で表示され、夫人はプロジェクトの大きな存在だったのだとあらためて認識させられた。
渡辺さんは結婚を機に、近い距離にいる植松さんによって自身の作品の核のようなものが固まっていったのではないか。
クリストとジャンヌ=クロードを引用したのは、現代の彫刻的作品は誰がどのようにつくったかが証明されない、いや証明自体が無化されてしまう表現なのではないかと思っているからだ。
彫刻的作品に出会って確かなのは、空間での圧倒的な感覚のありようと、時間の記憶が残ることだ。しかしそれは他者には伝えることができない。みるというより包まれるという感覚の至福をもたらすこともある芸術のジャンル。
彫刻的な作品は、それが置かれるのが室内、野外にかかわらず、たえず無名性の方向に向って行く習性をもっているのではないか。
それにひきかえ絵画は風景画であれ肖像画であれ、抽象画でさえ、画家の名前とともに語られる。キャンバスや紙という切り取られた平面での行為は人間の営みの最も人工的で抽象的な行為なのかもしれない。だから固有名詞が必要なのだ。
彫刻作品は設置の瞬間から、つくり手知らずの方向へどんどん進んでいくのに、受け手の体感の記憶はなかなか消えない。そうした性質の芸術ジャンルだから協動作業がうまれやすいのだと思う。
重力の計算や風雨への腐心。もちろんかたちや質感、スケール感の共有を前提に、チームやカップルやユニットという単位での制作はきわめて自然なことなのだろう。
クリストとジャンヌ=クロードは、20世紀までは考えもつかない、消えていく壮大さのありようとその美しさを、無尽蔵にただただ見せることを芸術とした。
今回は渡辺さんの個展だが、少し前、大阪のギャラリーKURANUKIの隣り合わせの空間で植松さんとの二人展が開催された。
そのときの印象は、はりつめたことや状態が好きな二人の、緊張感にあふれた、それでいてやわらかで豊かなコラボレーションだった。
渡辺さんの作品は板状の木枠に綿布を張った作品だ。壁や床に置かれる。
一つの木枠には一色だけ。白と黄、白と青、白と白の組み合わせもある。白はきなりの色目。それぞれのかたちは吹雪や砂嵐がつくるエッジのたったシュプールのように、滑らかなところと鋭い個所をもつ。接合部分の高低や陰影の部分が静かにスパークしている。
彼女はこの一連の作品によって今年第10回吉原治良賞美術コンクールでグランプリを受賞した。
INAXギャラリー2のおおよそ20年目の一新した空間での第一回目。清新で官能的な渡辺さんの作品でスタートすることを、今はただ嬉しがって待っている。