INAX GALLERY 2

2000年1月のINAXギャラリ−2 Art&News
眞板 雅文 展
−大地のかたち・ブロンズ −

会期:2000年1月6日(木)〜1月27日(木)
休館日:日曜・祝日

Art Newsは、ギャラリー2の展覧会カタログです。ここに掲載論文を御紹介します。



時空の供物 ― 眞板雅文の現在

水沢勉(神奈川県立近代美術館 学芸員)

晩秋の箱根強羅の、風と、光と、冷気を感じながら、眞板雅文の新作《竹水の閑―箱根》(1999年)に近づいてみる。ゆるやかな芝生の傾斜地に、それは、三基、静かに佇んでいる。彫刻を観ながら、彫刻を次々に忘れなければならない、という「箱根彫刻の森美術館」での、いつもの苦痛が和らいでゆくのを感じる。本館の方から、広場へと伸びている橋の途中から、やや俯瞰する角度で最初の一基を見やったとき、すでに、不思議な、なつかしいような感覚がうごめきはじめていたように思う。これはなんだったのか。
記憶をまさぐりながら、問い掛けてみる―なにかに抱きとめられている。ゆったりと浮かんでいる。軽く放りなげられている・・・・・・。

高さ7メートル、直径16メートルを超える(一基だけ、やや小ぶりだが)、竹と縄と鉄と水による造形物。円錐形を逆さにしたかたちで、何本もの竹が、ちょうど手を広げるように空に向って真っ直ぐに伸びあがる。
地面に接する水平面には、水盤が用意され、そこに向って一本だけ水平に竹が外から延びていって、その中心に水滴を落とす。へたをすれば、ほとんど死語というべき「ジャパネスク」なあしらいに堕しかねない、そのぎりぎりの地点で、さらりと身をかわ躱して、なにものか、広大なるものの存在の笑みを映し出す。大袈裟に聞こえるかもしれないが、世界の喜悦へと通ずる密かな反転がそこに生じる。風が竹の先端を撓ませ、竹同志がぶつかり合うとき、それは、一個の巨大な楽器にほかならない。
合理的で、ミニマルな、形態の鉄枠に荒縄が捲かれ、竹を太い針金がしっかりと固定するとき、個人を超えた、悠久の時間だけが可能にする、祭祀の造形への変貌が成就する。
遥かなものに捧げられているにちがいない、そう感じさせずにはおかない、時空の広がりに、それは、繊細に反応しているのだ。

眞板雅文は、三年前(1997年)、富山県の入善にある発電所美術館で、かねてから懸案であった素材である、竹の造形にはじめて挑んだ。
その現場には残念なことに居合わせることはできなかったが、展覧会後、かつては二〇年代の典型的なデザインによる水力発電所であった、その空間を隅々訪ね、そのなかで展示の記録写真のファイルを操っていると、多彩な作家たちのそれぞれに力のこもった発表のなかでも、眞板の仕事振りは際立って見えてくるのだった。
まさしく近代を支えるエネルギーの発生の場であった空間。その、いわば退役のすがたである現「発電所美術館」に、近代の射程を超える時空を呼び覚ます、まったく異種の装置として、竹は、眞板の手によって息づいていたにちがいない。

INAXギャラリーでの新作に向けて、八ヶ岳の麓の仕事場で制作に打ち込む眞板さんは、「蘇生構築」「回生」の文字を鉛筆で書いて、ぼくに見せてくれた。神奈川大磯の孟宗竹は、根ごと掘り出され、西雅秋の手によってブロンズに鋳抜かれ、信州と箱根で採取された、無数の公孫樹の落葉とINAXギャラリーの新しい空間で組み合わされる。
はかなく朽ちつつある落ち葉と、永遠を夢想するブロンズ―その出会いは、もはやモノ派の文脈から遠く遥かに隔たった、眞板雅文の現地点を指示するにちがいない。なにものか侵しがたいものが存在する。
それに捧げられる供物。不完全な人間は、できる限りのことを惜しみなく尽くさねばならぬ。眞板雅文は、ひとりの寡黙な職人のように、持てる力をすべて注ぎ込む。そのとき、彫刻は、遥かな時空に捧げられる供物に等しい。そして、ぼくたちの命もまた世界へと差し出された、ひとつの供物ではなかったか ―
その記憶が、箱根の三基の新作へと近づく、ぼくのなかで疼いたのである。




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