桂離宮の建つ京都・桂地方は古来、月の名所として知られ、地名も帰化人によって中国の「月桂」の故事から名付けられたものである。この地には月読神社もあり、月を信仰する土地柄でもあった。源氏物語や土佐日記等、古典文学の多くに月の名所として桂の地が取り上げられ、現在の桂離宮の敷地には、平安時代に栄華を極めた関白・藤原道長の観月の楼閣が建てられていたという。
このような土地に造られただけに、造営者・八条宮智仁、智忠親王父子も月を意識しないはずはない。桂離宮には月見台、月見橋、歩月、浮月の手水鉢などの名称、また月の字の引手、月の字崩しの欄間、歌月の額など、月にまつわる意匠が数多い。
名称や意匠のみならず、建築上の仕掛けにも観月の工夫が随所に施されている。中世以降の造園のバイブル『作庭記』には「高楼はさることにしてうちまかせては軒短きを楼と名付けて(中略)楼は月を見むため」とあり、軒が短く高床な建物を楼といい、楼は月を見るための建築であると定義づけている。桂離宮の中心施設である書院群や、その隣りに建つ月波楼は、大工の秘伝書『匠明』に載せられた当時の標準的な床高及び軒の出よりも極端に高床であり、かつ軒が短く切りつめられていることがわかる。
観月は四季折々の月を楽しむものだが、中でも十五夜の満月、特に中秋の名月を最も高く評価した。また満月に限らず、居待の月、臥待の月といって、どんな月齢であってもその月の出の瞬間を無上のものとした。よって書院群や月波楼も、月の出を一刻も早く望むために高床とし、その後中天した月を何物にも遮られることなく眺めるために、軒を短く切ったものと思われる。
一見無造作に配されたかのような桂離宮の配置計画にも、創建された1615年の月の出の方位との精密な関連性が指摘できる。桂離宮の各施設は季節的性格をもち、例えば前述の書院群には月見台があり、また月波楼はその名称から月の季節である中秋の性格をもつことがわかるが、これらの方位が1615年の中秋の名月の月の出の方位と一致する。また「一枝漏春微笑意」から命名された笑意軒、4月に亡くなった智仁親王の供養のための園林堂、梅や桜が植えられた梅の馬場などの春の性格をもつ施設の方位は、同年の春分の月の出の方位と一致。さらに暖房を強化した松琴亭、紅葉樹ばかり植えた紅葉の馬場などの冬の性格をもつ施設の方位は、同年の冬至の月の出の方位と一致している。つまり各季節に応じた施設から、それぞれの季節の月の出を正面に眺めることができるように工夫されていることがわかる。
1624年の中秋の名月の日、月の出を望みつつ智仁親王が桂離宮で詠んだ次の和歌が残されている。
月を待つ
出ぬやと 待ちたる雲は 誰もさぞ
同じ眺めの 山の端の月
(誰もが出でぬかと待つ山の端の月はまだ出ず、同じ雲ばかり眺めています)
山の端の 雲に光の矢たつと
見るがうちより 出づる月かな
(山の端の雲に光の矢が立ち、見る見るうちに月が出ました)
雲は晴れ 霧は消え行く 四方の岑の
中空清く すめる月かな
(四方の山に雲が晴れ、霧も消え、空高く月が澄み渡っています)
月をこそ 親しみあかぬ 思ふこと
言はむばかりの 友と向ひて
(親しく、飽きない、何でも思ったことのいえる友である月と向き合っています)
これらの和歌のうち、初めの二首は、中秋の名月の月の出へ向けて建てられた古書院月見台から、現実に中秋の名月の月の出を眺めたことを伝えるものである。最後の和歌の「友と向ひて」というのは「月と向い合っている」という意味であり、満月を計算通り月見台の正面にとらえていることが確認できる。
宮元健次(庭園史・庭園デザイン)
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